「父の手のひら」

高原光子

 この頃なぜか子ども時代をよく思い出す。「歳のせい」なのかもしれないし、親の気持ちが分かるようになったからかもしれない。幼い頃から盲学校の寄宿舎で育ち、両親の反対を押し切って結婚してしまった自分にとって、両親や兄弟などは遠い存在でしかなかった。しかし、なぜか日増しに古里への郷愁が増してくるようになった。
 あれは小学3年の3学期だったろうか。八戸の冬はどこもかしこも雪と氷で覆われる。それまで特に寂しがって泣いたりすることなどもなく寄宿舎生活を過ごしていた私だったが、なぜか急に通学したいと言う野望に取り付かれてしまった。今でこそ寄宿舎生活が児童に及ぼす悪影響について囁かれるようになったが、当時(35年ほど前)は、安全面が優先されたのか、親元では育てかねたのか、とにかくかなり学校に近い生徒までが寄宿舎生活を余儀なくされていた。私の家は学校からバスで30分ほどの距離にあったが、通学するなどと言う話など1度も飛び出したことはなかった。それなのになぜか急に通学したいと思い始めると、居ても立ってもいられなくなってしまった。
 強硬な子どもに負けたのか、納得させるためにはこれしかないと両親や先生方が相談したのか、試しに通学してみることになった。土曜日の午後父に連れられて寄宿舎を出た私だったが、バス停までの5分ほどの間に、氷で滑り2度ほど転んでしまった。持ち慣れない杖を右手に持ち、教科書の入った鞄を肩からかけ、それでも私はバスに乗り込み家へ向かった。幸い家はバス停から近く、転ぶこともなくたどり着くことができた。当時の我が家は寄宿舎に比べ暖房の設備などもお粗末であり、たぶん食事も寄宿舎の方が良かったように覚えている。しかし、それでもなぜか私は家へ帰りたかった。とにかく月曜日の朝から一人で通学することになった。
 記憶は急に月曜日の朝のバスの中へと飛んでいる。ラッシュアワーのバスの中は息苦しく、点字の教科書で膨らんだ鞄が肩に食い込み、重たかったことが思い出される。それでもとにかく学校のあるバス停で降りると、早速学校へと歩きだそうとした。ところが、なぜかバスから降りたとたんに方向が分からなくなってしまった。頭の中が真っ白になり、どっちへ行ったらいいのかさっぱり分からない。早く歩き出さなければ遅刻してしまうと思い、通りがかりの人に聞いても、なぜかだれも盲学校など知らないと言うばかりで、気ばかりがあせり、とうとう泣き出しそうになる始末だった。
 そんなことをしていると、急にだれかの大きな手が私の手に触れ、私を連れてどんどん歩き出したのである。私はただ夢中でその人にしがみつき、ただただ歩き続けるしかなかった。しかし、その人は盲学校を知っているらしく、私を学校のある曲がり角まで連れていってくれた。私は口の中でもそもそとお礼の言葉をつぶやき、やっと一人で歩き始めた。ところが、その日は土曜日とは違い氷は少なかったものの、田圃も道もふわふわした雪で覆われ、私にはどこが本当の道なのかが全く分からなかった。とにかくただひたすら学校の方角を目指し雪をこぎ続けるしかなかった。
 やっと学校の玄関へとたどり着き、ストーブの前に手袋と靴下を並べた頃には、私はすでに通学などこんりんざいするものかと心につぶやいていた。そして、黙って私を学校まで連れてきてくれた人が自分の父であったことも後に聞かされた。私の父はほとんど視力がなく、私を見失わないようにすることがどんなに大変なことであったかなど、当時の私には知る由もなかったが、なぜかその時の温かい手のひらは今でも忘れられない。
 今、私はあの時の父よりも年齢を重ねてしまった。30年前よりも、20年前よりも、10年前よりも、当時の思い出は鮮明になった。
 現在私も親としてやはり子どもを盲学校へ入学させている。週末などに帰省していた子どもが寄宿舎へ戻ってしまった後の寂しさを、あの時の両親と同じように味わっている。心で泣きながら娘の手を取っていただろう父の心も少しは分かるようになった。中学生の孫の手は、すでに祖父の手よりも大きくなってしまい、通学したいなどと無理難題を言ってくることもない。


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