「21世紀私の夢」

高原光子

 子どもの頃、こんな馬鹿げたことを言ってよく笑われた。
「世界中にある本の総てが、電気のように私の頭に流れ込んでくればいいのに。」
私は読書が大好きだった。しかし、眼の見えない私にとって、点訳と言う工程を経なければ手に入らない本は、あまりにも待ち遠しく、「世界中の本の総てを読む」など「夢」どころか、「愚かな発想」でしかなかった。それでも私は片っ端から点字図書館の本を読み漁り、テープレコーダーが普及してからは2倍の早さでテープを聞いた。しかし、いかに自分の読みのスピードがアップしても、点訳や音訳のスピードが追いつかず、新刊書が出版されてから、1年もたってから手に入るのでは本好きの私としてはいらいらを通り越し、「頭にきた」と叫びだしたくなるのだった。
いや、読みのスピードが早くなったとはいえ、たかが「ふつうの話し言葉の2倍」である。「速読術」などと言う超能力的な読みのスピードを見につけている人と同じとは言わなくとも、せめて晴眼者が黙読するくらいのスピードで読みたいものである。と、こう書いてくるとまるで私が猛勉強家に見えてくるのだからうれしくなってしまう。
私がいかに点字の本を読み漁ったとはいえ、たぶん本好きの晴眼者が読んだ数に比べれば何十分の1にすぎないであろう。「本を読むこと」すなわち、「情報を得ること」は私たち視覚障害者にとっての最大の課題なのである。視覚障害者は情報障害者である
と言ってもあながち間違いではない。それどころか視覚障害=情報障害であろう。

 その「情報障害」を補うべく私がパソコンを入手したのは、今から9年ほど前である。当時の最大の目的は「読書」と言うよりは「墨字(普通の人が読める文字)を書くこと」であった。先天性の視覚障害である私にとっての墨字は、まさに「不思議の文字」であり、未だに漢字や、墨字のレイアウトでは悩み続けている。
そして、その漢字の問題が私を「辞書を引きたい」と言う欲望に駆り立てるようになるまでには、そう時間はかからなかった。私は新しいマシンに乗り換え、電子ブックで辞書引きを始めた。我が家には点字の国語・英和・和英・古語などの辞書があり、床から天上までの高さで、幅1間もの場所を塞いでいる。なにせかの有名なコンサイスが、B5版で5〜6センチもの厚さで70冊にもなるのだから笑ってしまう。それが電子ブックになり、手のひらに乗るようになったのだから驚くべきことである。私は憧れの広辞苑を初め、あらゆる辞書を取りそろえた。
「ねえねえ、あたしね、ワープロで普通の文字が書けるようになったんだよ。そいでね、辞書引きも簡単にできるようになったし、それを自分の文章の中に取り込めるようになったんだよ」と、友人達に自慢をする毎日が続いていた。
そして、今から3年ほど前のこと、私はいよいよパソコン通信の世界に乗り出したのである。そのわくわくすることと言ったら、もう子どもが新しいおもちゃを与えられたときのようで、これまたみんなに吹聴することを忘れなかった。夫に内緒ですてき?な男性とメール交換などをやってみたのもその頃であった。健常者と「手紙のやりとりをする」ことができるのだから、そのメリットを生かして少しは遊んでみなければ損であるとばかりにちょっとぶりっこをしてみたのである。
そして、今私は電子化された新聞や出版物を読み、点訳データを通信で入手している。ホームページにアクセスし、カタログを取り寄せ、入手した製品のマニュアルをテキストデータでもらったりすることもある。歌の好きな私は、カラオケのデータを受信しては自慢の喉を披露したりすることもある。また、フォーラムなどで友人を作り、外出の手助けをしてもらうこともある。こうして、私の生活は10年前には想像もできなかったほど大きく変化した。これはある人にとっては未来の生活そのものかもしれない。

 変化のスピードはあまりにも早い。せっかく新しい何かを覚えたと思って喜んでいたら、すでに時代遅れになってしまっているのだからまごまごしてはいられない。この調子で進歩し続けていけば、21世紀にはどんなことができるようになるか想像するだけ無駄かもしれない。しかし、あえて非常に独断と偏見に満ちたやり方で想像してみよう。
これは、私が描く夢の世界であり、決して理想の世界ではないかもしれない。人間は、自分中心でしか物事を考えられないし、私は自分勝手な人間であるから、それでよしとも思っている。
「人に優しい未来」と言うことがマスコミなどで囁かれている。「優しい」と言うとき、その「優しさ」と言う甘美な響きに逃げ込んでいないだろうか?「優しさ」の本質を分析し、真に一人一人を大切にする世の中でなければ生きている意味がない。それでは、一人一人を大切にする世の中とはなんだろう?人は、進歩のスピードが早すぎるからついていけないのではない。進歩の方向が一方に偏っているから困る人が出てくるのである。
私は自動券売機や、自動改札を恐れる。それは、GUIが主流になり、今までのようにボタンを押したりできずに、画面にタッチすることでしかアクセスできなくなるかもしれないからであり、券売機が悪いわけではない。自動券売機を設置するときには、車椅子のことや、視覚障害者のことなども考慮に入れた設計でなければ意味がないし、自動改札もしかりである。銀行のCD・ATM、自動販売機、次々に機械化が進み、以前ならば人がやっていたことが機械でできるようになり「得した人」が誰かと言えば、メーカーであり、その機械を採用した会社であると言うのは言語道断である。「得する人」は、あくまでユーザーであるべきなのだ。

 それでは、具体的に見てみよう。先に上げた自動券売機や自動改札、CDやATMなどは誰もが使いやすい設計でなければならない。そのためにはユーザーからの意見を聞く場がなければ困る。障害者や高齢者など社会的弱者と呼ばれる人たちの意見こそ多く取り入れるべきである。ネットワークを使い会議を開いたらどうであろうか?移動が困難な障害者が意見を述べようとするときには、この「在宅モニター」が役に立つ。画面を見ながら操作し、意見を述べればいい。視覚障害者の場合には、触って見る必要があるかもしれないが、それも見た後の意見をネットワーク上に載せることはできる。GUIが主流になれば電気製品なども視覚障害者にとって使いにくい物になるはずだが、これもモニターしてもらった結果をネットワーク上に載せ、多数の人が見ることができれば、間違った発展を防ぐことができる。当然マニュアルもそれぞれの要求に合ったメディアでなければ意味がない。
次にいよいよ読書について考えてみよう。現在の読書は紙に書かれた物を読むと言う行為である。しかし、先に上げたように電子出版が確立すれば、ペーパレスになるであろう。著作権などクリアしなければならない問題は残るものの、これは私のような視覚障害者にとっては早く実現して欲しいことである。今は文字データを受信し、それを音声合成システムで読ませているのだが、朗読もデジタル化され、ネットワークから入手できれば、もっと聞き易い物になるであろう。情報は総てデジタル化できるはずである。音楽・ニュース・映画・その総てが自分の欲しいときに手に入るはずだ。ようするに、人はその中から自分の必要とする情報を的確に選びさえすればよいのである。今までのように情報発信基地から勝手に情報が流れ出すのではなく、受信する側の命令で情報が送られてくるようになるであろう。もちろん、メディアはユーザーの受信できる物でなければならないし、ユーザーが理解できる物になるはずである。視覚障害者には副音声による解説が付き、聴覚障害者には文字多重放送が当たり前になる。そして、盲朗の人には、点字ディスプレからデータが流れ出してくる。また、自分のもっとも聞き易い国語でのメディアも当然のこととして選べるようになるであろう。そんなことが普通になる時代は必ず来ると私は信じている。必要もないのに毎日届けられるダイレクトメールなども、データとして届けられるようになれば、これは、枯渇しつつある資源を護るためにも、増え続けるゴミをなくすためにも有益な方法である。文字を読めない視覚障害者に送られてくる意味のないダイレクトメールなど「ゴミ」いがいの何物でもないのである。

 光ファイバーが世界中に張り巡らされ、通信スピードが飛躍的にアップし、コストもこれまた飛躍的に安くなると、こんなこともできるであろう。遠方に住んでいる家族同士がテレビ電話を利用しまるですぐ側にでも居るように会話できるのである。孫の運動会の日、たまたまおばあちゃんが入院していたら、その様子をテレビ電話を通じて中継してやればいい。おばあちゃんはベッドの中で孫を応援しながら治療が受けられることになる。出張中のお父さんとも気軽に会話ができる。一緒にお酒を飲みながら、「おまえちょっと顔が赤いぞ。飲み過ぎたんじゃないか」などとまるで隣に居るようにお互いをいたわり合えるようになるであろう。視覚障害者の一人歩きも楽になるはずである。自分の行きたい場所が見つけられなくなったり、今どこに居るのか分からなくなったら、自分から発信し、誘導してもらえばいい。カーナビゲーションシステムがもっと高性能になれば、自分の居る位置を正確に把握できるであろう。健康診断などもある程度自宅でできるようになるはずだ。自分でデータを打ち込む必要などはない。発信器を身体に付ければ、自動的に検査し、そのデータを病院へ送り、その結果を送り返してくれるであろう。病院へ行く必要があれば、その旨が報告され、希望すれば直ちに病院へ連絡されるはずである。もちろん毎日の買い物もほとんど通信で行うことができる。共働きの家庭や、高齢者、障害者などは大いに助かることになるであろう。授業も通信を使えば現在のように無理に学校へ行く必要などはなくなるはずだ。登校拒否などと言う言葉は死語になり、教師は知識を供給するのではなく、その知識を利用してどのように生きるべきかを指導する立場になるはずだ。バーチャル・リアリティ「VR『仮想現実』」により、文字や、写真などを見ると言う受け身の勉強の仕方から、疑似体験して理解する方法へと変化するかも知れない。そして、このVRは娯楽をも大きく変化させ、疑似セックスへと駆り立てることも予想される。たった1枚のカードで電話も乗り物も買い物もでき、小さなパソコンでどこでも通信ができるようになる。

 しかし、ここで問題になるのはプライバシーの保護である。ネットワークはあくまで市民の物でなければならない。個人データが本人の知らない内に売買されることなど決してあってはならないことなのだ。また、個人情報を利用し、行政が管理することも決して許されないことである。そのあたりをきちんとクリアできない内にどんどんハードウェアだけが進歩してしまえば、「夢の世界」は一挙に「魔の世界」になってしまうのである。 次に問題となるのは「コンピュータウイルス」である。原子爆弾を恐れている人は多いが、世界中に広がるネットワークを使えば、敵国を破滅に追い込むのは意図もた易いことである。ネットワークへの依存度が高くなればなるほどその影響は致命的となり、国中がパニックとかし、総ての情報が無価値な物になることは自明の理である。

 ここまで書いてくると、人間が扱う情報処理のほとんどのことが、コンピュータで行われるであろうことは誰にでも容易に理解できる。ラッシュアワーにもまれての通勤は無くなり、自宅で仕事をし、それをネットワーク経由で送ることができれば、移動が困難な障害者も健常者と同等に職業に就けるであろう。健常者よりも恩恵を受ける可能性のあるのは障害者や高齢者など「社会的弱者」と呼ばれる人達である。しかし、そのためにはパソコンやその他のインターフェースをだれにでも使える物にしなければ意味がない。高齢者や障害者などがまごまごしているときに、優しくアドバイスできなければ困る。
「困るな。みんな自動でやっているんだから、ちゃんとCDやATMを使ってもらわなきゃだめだよ。」
などと、使いにくいインターフェースを平気でユーザーに押しつけて何とも思わない愚鈍な経営方針ではこれからは役に立たないのである。ユーザーが戸惑っていたら自分達が謝らなければならないことを理解すべきである。日本人なのにカタカナ文字ばかりの何やら得体の知れないボタンばかりが並んでいる機械、眼の見えない人も居るのにタッチするだけで無言で画面が変わってしまうインターフェース、文字が小さすぎて見えない画面、訳の分からないボタンがぎっしり並んだリモコン、まるでメーカーがおもしろがって使いにくいインターフェースにしているとしか思えないデザイン、「おまえらあほちゃうか」と一喝したくなるのは私だけではないであろう。そして、このようなユーザー泣かせのインターフェースを無くすためにこそこれからはマンパワーが必要になるのである。これからの「人」の役割は、「人の為の機械を作ること」であり、「機械にできないコミュニケーションを心を込めてする」ことである。無味乾燥な機械に囲まれている人が、しばしの安らぎを求められるのは、やはり「人の暖かさ」であることをしっかりと認識し、仕事に結びつけることができる人こそ、真の「成功者」になると私は信じている。

                 1996年6月(完)


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